勧請元である阿蘇神社
阿蘇神社は、熊本県阿蘇市にある神社です。式内社(名神大社)、肥後国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社になっております。全国に約450社ある「阿蘇神社」の総本社で、古くは「阿蘓神社」とも記されていました。
<健磐龍命神社/阿蘇比咩神社⇒阿蘇社→阿蘇宮→阿蘇神社>
名神大社、888年以後は大神宝使発遣対象社。
第7代孝霊天皇御代 孝霊9年(紀元前281年)6月勅命により、神武天皇の御子である神八井耳命 (カムヤイミミノミコト)のまた御子である健磐龍命(タケイワタツノミコト)=阿蘇大明神-1の宮)を主神とし、御妃神である阿蘇都媛命(アソツヒメノミコト=2の宮)、阿蘇初代国造である国造速瓶玉命(クニノミヤツコハヤミカタマノミコト=11の宮)及び近親十神を含めて12神(12宮)を祀る神社として創建されました。
その昔、阿蘇大明神は満々とたたえた湖水を外輪山の立野付近を蹴破って水を流し阿蘇を開拓しました。
第12代景行天皇は国造速瓶玉命の子惟人に命じて神社を創建させたと伝えられます。(肥後国誌等)
鎮座地:
阿蘇神社は熊本県阿蘇市一の宮町宮地字宮園3083
阿蘇五岳の北側阿蘇谷の中央部に位置し、古代阿蘇国造 の中心地でした。
旧社格:
大正元年に官幣大社62社の一つ
肥後の国一の宮
町名も一の宮町 といいます。一の宮町昭和29年)宮地町・坂梨村・古城村・中通村・が 合併して出来ました。当時の人口は約13千人、面積は105k㎡でした。
神徳:
厄除け縁結び、学業成績、交通安全
【阿蘇神社由緒略記】
御主神健磐龍命は1代神武天皇の勅命に依って九州鎮護の大任に当られた。後に命は、紀元76年春2月阿蘇に下られ草部吉見神の娘阿蘇都比咩命を娶り、矢を放ち居を定められ、四方統治の大計を樹て阿蘇の国土開発の大業を始められた。当時大湖水であった阿蘇火口湖を立野火口瀬より疎通し阿蘇谷の内に美田を開拓せられ、住民に農耕の道を教えられた(7月28日の御田祭神事の起り)。
また歳ノ神を祭り(3月の田作神事の起り)、更に霜神を祭り(霜宮火たき神事の起り)、風神を鎮め給う(風宮社の風祭の起り)等国利民福の為に尽くされた。
業成っては阿蘇山麓に大巻狩を行い鳥獣の害を除き(9月25日田実神事に執行の流鏑馬の起り)
※これは下野の狩りとも云い中昔源頼朝が富士の牧狩を行なうに先ち使者を遣わし、この狩りの古実を学ばせたと云う。この巻狩りは天正以後廃絶した。祀典の範を定め庶民のために其の憂苦を除き給いて吾が大阿蘇開発の先駆者として不滅の功績を遺された。是に土地開け住民この地に安住して今に至るまでその恩沢を享け皆夫々生業を営めるは命の偉大なる御事蹟に外ならず、洵に命の大業は吾が日本建国史に不滅の光彩を放つものと云うべきであり現今国土開拓の神、農耕道の祖神として汎く世人の崇敬をうけ11世紀以降肥後1の宮と仰がれ肥後の国熊本の総鎮守神として尊崇をうけております。国土の開拓とはただ産業の振興のみならず吾々人間生活に関わりある交通・文化・学芸・結婚・医薬・厄除等の生活守護の神として限りない御神徳をいただいています。
第7代孝霊天皇の9年6月御子速瓶玉命に勅して大神を祭られたのが当社創建の始めで平成3年より2273年前であり、第12代景行天皇の18年惟人命に勅して特に崇敬を尽くされ永く祭祀を廃せざる様命ぜられた。これが阿蘇大宮司職の始りであって現在に至まで連綿91代世々祀職を継承されており皇室に次ぐ日本最古の家柄である。
国家の尊崇第53代淳和天皇(弘仁14年)、従4位下勲5等に叙し健磐龍命に封2千戸を充て奉り順年昇位し貞観元年正2位、次いで延喜の制明神大社に列し名神祭に預かり、寛仁元年1代1度の大奉幣に預かる等朝廷の御尊崇極めて篤く肥後の国の1の宮とせられた。
爾来禁裏将軍家を始め武家武将の崇敬を享け、阿蘇氏の武門としての勢力は肥後一円に及び厖大な社領を有していたが、秀吉九州征伐の時阿蘇神領を没収し改めて天正15年3百町の地を寄せられ、ここに往時の勢力を失墜するに至った。後に加藤清正、細川氏藩主たるに及んで畧代社領の寄進、社殿の造営等を為し崇敬の誠を表された。明治4年5月国幣中社、明治23年4月官幣中社に、大正3年1月官幣大社に列せられた。